前回、北方絵画について書いたついでに、少しばかり「北方」の整理をしておきたいと思います。西洋美術において「北方絵画」といえば、概ね現在のベルギー・オランダ・ドイツあたりの絵画をさします。しかし、いずれの地域も現在の国名や領域と完全に一致しているわけではありません。また、同じ地名でも時代によって包含する領域が変わってきたり、さらには原語の地名と日本語の地名の間にもズレがあったりして、けっこうややこしい。そんな中で、特に美術に頻出の「ネーデルラント」「フランドル」「オランダ」について整理してみます。

それぞれの時代・地域をごく簡略化・図式化して示すと、
★ネーデルラント絵画=15~16世紀 北方ルネサンス 現在のベルギー&オランダに相当する地域
  例)ヤン・ファン・エイク、ヒエロニムス・ボス、ピーテル・ブリューゲルなど
★フランドル絵画=17世紀 バロック 今日のベルギーに相当する地域
  例)ルーベンス、アンソニー・ヴァン・ダイクなど
★オランダ絵画=17世紀 今日のオランダに相当する地域
  例)レンブラント、フェルメール、フランス・ハルスなど


ネーデルラント絵画(北方ルネサンス)
ネーデルラントは、今日ではいわゆる「オランダ」をさす名称として使われていますが、もともとは現在の「ベルギー+オランダ」に相当する地域全体をさしていました。14世紀この地でブルゴーニュ公国が繁栄、文化・芸術も発展していきます。16世紀にはスペイン・ハプスブルク家の支配下に入りますが、やがてスペイン支配に対する反発から、17世紀、プロテスタント(カルヴァン派)の強かった北部ネーデルラント7州が独立、今日のオランダが成立しました。一方、カトリックの多かった南部ネーデルラント10州は、引き続きスペイン統治下にとどまることになります。こうた時代背景をふまえ、南北ネーデルラントが(宗教的・政治的に)分かれていなかった独立前の時代(北方ルネサンスの時期)に、現在のベルギー、オランダを含む地域で生み出された絵画を「ネーデルラント絵画」といいます。
なお、北方ルネサンスの中心は南部ネーデルラントのフランドル地方であったので、「初期フランドル絵画」ということもあります。しかし、単に「フランドル絵画」といえば通常17世紀フランドル絵画をさすことが多いので、これと区別する意味で北方ルネサンス期のフランドル絵画は「ネーデルラント絵画」というのが一般的です。ややこしいですね…^^;

フランドル絵画(バロック)
もう一つ、美術でよく耳にするのが「フランドル」という地名。童話『フランダースの犬』にも登場する17世紀の巨匠ルーベンスは、「フランドルの画家」として知られています。英語でフランダース、オランダ語でフランデレン、フランス語でフランドルと呼ばれるこの地域は、南部ネーデルラント、すなわち現在のベルギーのほぼ北半分に相当するオランダ語圏の地方です。(べルギーは、北部でオランダ語、南部でフランス語、そして少数ですが東部でドイツ語が話されています。)
17世紀、カトリックとしてスペイン統治下に留まったこの地では、バロック美術が隆盛を極めました。ヨーロッパ各地を股にかけて大活躍したルーベンスは、その最大の巨匠です。絢爛豪華なバロック美術は、宗教改革の大波を受けて対抗宗教改革に力を注ぎつつ立て直しを図っていたカトリック教会の意向と深く結びつきながら、ヨーロッパ全土を席捲しました。バロックの発祥は16世紀末のローマですが、その最大の精華は、イタリアから遠く離れた北の地、プロテスタントとの分水嶺であったフランドルに出現しました。そのルーベンスをはじめとして、この時期にとりわけ際立った芸術家を輩出したのが「フランドル絵画」です。
なお、南部ネーデルラントが独立するのは、北部に遅れること約200年、19世紀前半のこと。この間に、かつて「ネーデルラント」として一体的な文化圏を形成していた「ベルギー」と「オランダ」は、次第に異なる気風や文化的、社会的特質を形成していったようです。

17世紀オランダ絵画
一方、長い闘いの末に独立を果たした北部ネーデルラント、すなわち現在のオランダでは、豪華絢爛なバロック美術とは異なる独自の芸術的展開が見られました。いわゆる「オランダ絵画の黄金時代」です。
カトリックのように教会や聖職者の権威を重視しなかったプロテスタントにおいては、教会をきらびやかに飾る宗教画の需要は減り、カトリックの教理を基盤にした壮大なバロックは流行りませんでした。代わって、宗教性の希薄な世俗絵画―肖像画や風景画、静物画など―が、富裕な新興ブルジョワジーの嗜好を満たすものとして重用されるようになっていきます。目もくらむような大がかりなバロック的イリュージョンではなく、自邸に飾って楽しめるような親しみやすい題材、架空の理想郷ではなく慣れ親しんだ自国の風景、道徳的な教訓や寓意性を内包しつつ対象のリアリティが際立つ静物画などが求められました。こうした世相を反映し、肖像画や風景画、静物画、動物画など、特定の分野専業の画家が多数活躍したのも、オランダ絵画の大きな特徴です。今日では当たり前のこうしたジャンルは、17世紀のオランダで独立した絵画として確立し、芸術的認知を得たものが多く、また主題の脱宗教化という点でも、後世に残した影響はひじょうに大きなものがありました。全体としては圧倒的なバロックの波がヨーロッパ全体を覆っていた17世紀にあって、新しいタイプの絵画を生み出し、近代絵画の可能性を開いたのが「オランダ絵画」です。


ヨーロッパの美術史は、基本的に「一国だけ」の美術史ではなく、さまざまな地域が互いに影響し合いながら、ある時はイタリアが、ある時はフランスが、ある時はオランダが、その時代の最も先鋭で闊達な芸術活動を体現・牽引し、またそれらに触発されて他の地域でも新たなムーヴメントが生まれる、といった「横のつながり」を基盤にしたダイナミズムがあります。それは、日本人が思うような「国」や「自国の文化」のあり方とは、かなり様相を異にするものであろうと思います。


ヨーロッパに行くたびに感じる、複雑で入り組んだ歴史と文化、その中で「キリスト教」や「古典主義」といった大きな概念を基軸に形づくられてきた普遍性(汎ヨーロッパ性というべきかもしれません)を強く志向する芸術と、それぞれの土地特有の個性やローカリティを色濃く湛えた土着性の強い芸術が、車の両輪のように共存するさまを目にするたび、ここ日本にいて見ている「西洋美術」というのは、本当に氷山の一角に過ぎないのだと実感します。

呼称一つとってみても、オランダ~ベルギー一帯という、さほど大きくない地域の中だけでも、かなり錯綜した様相を呈しており、それぞれ異なる時代や様式と関連づけられ、それらがまた現代の地理的区分と必ずしも一致しないので、なかなか理解しづらい状況です。15~16世紀、そして17世紀は、西洋美術史上もっとも偉大なオールド・マスターが輩出した時代であるだけに、展覧会も多いのですが、さまざまな要因から日本人にはどうしても敷居の高い領域でもあります。しかし、「ネーデルラント絵画」「フランドル絵画」「オランダ絵画」を大まかにでも掴んでおくと、とっつきにくい北方絵画も少し見通しがよくなるかもしれません。ベルギー、オランダは、旅行先としても人気の国々。グルメや先端カルチャーと合わせて、ぜひヨーロッパ絵画の豊かな水脈に触れてみてください。